スクランブルエッグ

私による私の為の生存記録

だから私はファンレターが書けない

ファンレターを書くのが苦手だ。
私は基本的に自己完結しているエコな人間なので相手に伝えたいと思うことが少ない。
だが例外はある。先日私の心を焼け野原にするトンでもなくYABAI作品に出会ったので5000文字程度のメールを送らせていただいた。自分では精一杯の想いを書いたつもりだ。

だが、今一度過去の自分を振り返ってみるとTwitterで素直なポジティブ感想を送ったらブロックされたことがあったのを思い出した。
後からこそこそ相手方を覗きに行って分かった情報を纏めると私の感想が作品及び作者に対するディスりだと思われたらしい。
その瞬間は心外だと憤ったが噛み砕いていくうちにまあそれなりに納得した。
最近の事例だと、これまた素直なポジティブ感想をお送りしたつもりだが相手には微妙な反応をされたことがある。(送った後に自分でも批判的に捉えられるかもしれないと気付いた)

 

何故このような現象が度々起こるのか。何故私の言葉選びは人を傷つけるのか。
元々言語には第三者に伝わると意味が変化するという性質があるがそれはちょっと置いておく。

同士の皆様は同人でも公式でもファンレターをいう物を書くときにどの様にお書きになるのだろう。
とりあえず文字に起こすために頭の中の愛を整理なさるのだと思う。私もそうだ。
多分一般的には、その後整理された愛と好きな所と応援を詰め込んだ甘い文章が出来る上がるんだと思う。
しかし私は違う。整理する際にその作品を客観的に見て違いを明確にするために別の作品と比べてしまう。私は作品を評価してしまうのだ。
つまり私の感想は

「貴方の作品は他の人と違って××な特徴がありますね。一般的は作品は○○な場合が多いけれど、貴方の作品は△△で凄く面白かったです!これからも応援しています。」

みたいな感じ。
要するに人間ていうのは長短を比べられるのが嫌いらしい。自分宛ての感想は愛というか好意100%が一目瞭然でないと不快感を感じるらしい。
そしてこういう感想を不快に感じた作者は口を揃えて嫌なら見るなとおっしゃる。
私にはその感覚が全く分からない。この世には完璧な物なんて存在しないし、優は劣があるから産まれるし劣を魅力に感じることも当然あることだと思うからだ。
何より私は好きか嫌いかで考えているわけでは無い。
例えばFGO。フォロワーさんに勧められて始めたが傲慢な世界観と正義感が綺麗事で作られている主人公がめちゃくちゃ嫌いでプロローグをスキップするほどだった。
進めていくうちに少しは成長してマシになったが今でも彼とは根本思考が絶対的に合わない。
でも8章終えてのオチはゲームという形態を活かした素晴らしいものだと思うし他人に勧めるし、今日もイベントを走っている。

 

好きだからじゃない。優れていると思うから手を出す。褒める。興味深いから分析しようとする。評価する。

そんな私が書いた5000文字の想いは相手にどう受け取られたのだろう。

思ったことをありのまま書いた。好きな部分も問題点も書いた。それが私の感想文。