スクランブルエッグ

私による私の為の生存記録

無数の小さなユートピア

「モノ」「サービス」が人間にとって望まれた繁栄をもたらすか、それとも悪影響をもたらすかは使い手次第だとよく言うが、本当にその通りだと思う。
例えば、万能包丁は様々な食材を簡単に切ることできるが人を殺すこともできるわけだ。包丁をどう使うかは使い手の倫理や価値観に委ねられている。

 

今日、記事で取り上げたいのは「あつまれ どうぶつの森」というサービスについてだ。
結論からいうと私はこのゲーム(未プレイ)が無理だ。
「あつまれ どうぶつの森(以下あつ森)」というゲーム自体は大変に素晴らしくて疲れた人間の心を癒す娯楽に他ならないし、作品の内容を調べたり実際のプレイを見せてもらったりして私もゲーム自体を高評価している。
それなのに無理だと感じてしまう理由は、それを楽しむプレイヤーを見ていて醜悪さに吐き気を催してしまったからだ。


彼らを見て、私はこのゲームをなんだかやりたくないなって思ってしまった。
それまではあつ森を買って知り合いと通信することを夢見ていたし、今だって(彼らと相容れる範囲で)カスタムスローライフを楽しんでみたいなという純粋な欲求はあるのだ。

あつ森は本当に島のすべてを自分好みにカスタムできる。
川を造ったり端を建てたり、好きな場所に家を建てられる。家具は形は決まっていれど種類は豊富で色変更もできるし、洋服に至っては浴衣さえ作れる。
まさにDIYだ。


それらに交じって私の目に留まってしまったのが住人の厳選だ。
元々「どうぶつの森」シリーズにはこのシステムが搭載されていて、たとえば引っ越し違っている好きなキャラを引き留めたりすることができた。
想えばこの頃から私はこの作品に不快感を抱いていたのだと思う。引っ越したいという住人の意思を無視しているからだ。
身もふたもない言い方だが、これは軟禁だと思う。
好きな住民だけを置き島でスカウトするというという今回の仕様は、要するに自分が好きな相手だけを島に呼ぶことができる。

しかしそれは、気に入らない相手は排除するということに他ならない。しかも調べてみたら気に入らない奴が出てきたら電源を切るどころか、最初の住民は固定という状況に対して(緩いとはいえ)文句が出ている始末ではないか。
私はこれらのプレイを見て戦慄した。
自分好みにカスタムするということは、自分の気に入らない物が一切存在しないということ。即ちイエスだけの綺麗な世界を作成すること。
現実世界では絶対に不可能なことを、あつ森という仮想現実は可能にした。
この状況について、技術の発展については喜ぶべきだと私は思っている。
糾弾すべき点は、これを住人という生物に対して我々が嬉々として行っていること。住人は色々な動物型をしていて喋り方も違って、人間に例えるなら(例えなくても)人種や個性に他ならない。
しかも、これらを行っているプレイヤー達が悪意など微塵もなく楽しみ自らのしていることの恐ろしさを自覚していない。

 

この作品が売れるということは人々は自分好みの世界を作りたいということだ。
即ち、心の本質では嫌なものを排除したい(差別をしたい)ということなのだろうと私は思ってしまった。


既に述べたが、私自身にはあつ森ライフを楽しみたいという欲望がある。知り合いと通信をして遊びたいし、レシピを交換したいのだ。
だから、私がどのようにこのゲームにケジメをつけプレイしていくかということを考えなければならない。